三渓園は横浜の本牧(ほんもく)にあって、その敷地は5万3千坪というから相当な広さである。そして広さもさることながら、よくデザインされた複数の池や各地から移築された建造物など、その配置も見事で、園内を散策しているとここが港湾事業と米軍文化が混ざり合った本牧にあることを忘れさせてくれる。
三渓園は原三渓こと原富太郎の元邸宅である。原富太郎は横浜をベースにし生糸貿易を中心に莫大な富を蓄えた実業家だが(1868年〜1939年)、数寄者、あるいはコレクターとしては、旧・燈明寺の三重塔(同園のランドマーク)といった寺院建築や仏教絵画、茶碗など、数々の名作を蒐集したことで知られる。
今年(2009年)は、横浜開港150年として、地元ではたくさんのイベントが催されているが、ハマの御大尽・三渓氏も当然、(お亡くなりになってはいるが)特別参加である。「原三渓と美術 蒐集家三渓の旧蔵品」がその記念展示会だった(10月31日〜11月30日)。
三渓コレクションは、現在、多くが東京国立博物館(東博)や個人などへ売却なり寄贈されているとのことだが、今回は里帰り。何と言ってもメダマは、東博にある「孔雀明王像」(平安時代、国宝)と、奈良の国博が所蔵する「地獄草紙」(平安〜鎌倉、国宝)だった。「孔雀明王像」は、孔雀の上に明王様が鎮座しているところを真正面から描いた掛け軸(絹本著色)だが、その洗練、質の高さは当然として、お話としては、明治36年(1903年)に井上馨(いのうえ・かおる/鹿鳴館を造り、利権と賄賂で私腹を肥やした政治家)から一万円で購入したことで有名なのだそう。この金額、現時点に換算すると1億円ほどとかで、これは三渓がコレクターとして名を挙げた、一大事件なんだって。
「地獄草紙」は巻物(紙本著色)で、「餓鬼草紙」(国宝)などと同じように、平安の末期に流行した六道思想をもとにして「生きている内に悪いことをすると、こうなるよ」を、言葉と絵で綴ったものである。末世中の末世である21世紀の我々ならまだしも、見えざるものに対する畏れが人の一生を支配していたかつての日本にあって、燃え盛る炎となってヒトを食いちぎる真っ赤な鳥やら、怖いコワい鬼によってミンチにかけられている場面やら、これらを見た未だ現世に生きる人間たちは骨身に染みる恐怖を感じたことであろう。
ちなみに三法(仏・法・僧)への敬いを失した者はウンチの海に溺れることになるそうで、その図、諸手を挙げ助けを請う亡者たちを尻目に黄金色の水面をまん丸の目を見開きながら泳ぎ渡るウジ虫の楽しげな様は、赤塚不二夫の漫画とそっくりにカワユかった。
高麗茶碗・御本立鶴筒茶碗(銘・住の江、李朝)の傍には、一通の電報が添えられていた。文面にいわく「タチヅルハ ネダンニカカワラヅ ゼヒオトリアリ ネツシンチュウコクス」(立鶴の茶碗は、値段に関わらず、ぜひとも落札してくださるよう、本気で願ってます)。これを三渓へ打電したのが、益田鈍翁と森川如春。ご存知、(三渓をふくめ)彼ら3名は日本が敗戦国になる前の代表的な数寄者仲間であった。果たして「立鶴」は大正11年(1922年)、45600円という高額で三渓の手許へやってきたのである。
三渓の、コレクターとしての姿勢を示す資料も展示されていた。「三渓帖清書本」(大正、三渓園)は、書物にする前のナマ原稿で、そこには「…美術品ハ共有性ノ物ナルヲ以テ決シテ自他ノ別アルヲ許サス…」と直筆で書いてあった。納得。
お金持ちは、この心意気じゃないといけません。京都、奈良ほか、名所旧跡・博物館などの一部には、一般ピープルをナメ切っている所がけっこうあって、名庭園アリ、特別公開!などと謳っていながら手入れもせずにどうしようもない。その点、三渓園での特別展は、出典数は少ないものの、悪くなかったし低価格、また美しい庭園にも重要文化財ほかの建物が余裕を持ってずらりとならび、これら全体に三渓の遺志が貫かれているように思えた。
桂離宮に匹敵するといわれる名建築物「臨春館」(紀州徳川家の別荘を移築)などにしても、内部には狩野永徳(伝)ほか狩野派の襖絵があり、澄み切った初冬の空と室内の墨絵が、ほどよいコントラストを成していたのだった。
(文・TADASHI / 2009年12月1日)
三渓園ホームページ:
http://www.sankeien.or.jp/